5月の上映会 ジャン・コクトー特集①『詩人の血』2025.5.11@松江・出雲ビル地下 感想より抜粋Ⅱ

お客様からの感想②

10時からの上映&朗読のあとの感想会において、朗読をされた「青と緑」さんは、以下のような趣旨の発言をされたかと思います。

 コクトーにとっては、映画であろうが小説であろうが、あらゆるものが「詩」なのではないか?

 そこで私は考えました。では、「詩」の特性とは何だろうか?

 「詩」は、小説や随筆や論文などの散文よりも、ずっと多様な解釈に開かれているものだと思います。

 逆を考えてみましょう。例えば、「ショーシャンクの空に」という名作映画です。原作は、スティーブン・キングの小説、つまり散文です。

 もしも、映画「ショーシャンクの空に」の解釈が、多様に開かれ過ぎていたら、困ってしまいます。少なくともそれは、制作者の意図ではないでしょう。

 つまり、「ショーシャンクの空に」の世界では、時間の進行とともに、解釈の幅が狭められていく、と言えそうです。解釈の幅が狭められていった結果、観客のほとんどが、同じような感想を抱き、「ああ、面白かった」と言うのです。だから、誰もが認める名作になるのです。

 一方で、「詩人の血」は「詩」です。「詩」は、多様な解釈に開かれていますから、AさんとBさんが鑑賞して、まったく異なる解釈に至るかもしれません。

 このことは、1人の鑑賞者においても言えそうです。私の場合、10時からの上映時の解釈と、2回目の鑑賞となる18時からの上映時の解釈が、だいぶん異なっているのです。

 2回目でしたから、映画の細部を、よりじっくりと味わうことができたからでもありそうです。

 「詩人の血」は、セリフのほとんどない映画ですが、時々、謎めいた注釈のような言葉が挿入されます。

 私の場合、これらの注釈を頭の隅に置きながら2回目の鑑賞をすることで、新しい解釈につながったと思います(以下、映画を鑑賞しながら走り書きしたメモからの再現であるため、完全に正確な引用ではないはずです)。

 「詩人の血」の作者コクトーは、映画の前半でまず、「自分は映画の罠にはまった」と自覚していることを示します。

 「映画の罠」とはいったい何でしょうか?

 続いて私が気づいたのは、「またもや栄光だ」という注釈が、各所で繰り返されることです。

 例えば、最初のピストル自殺の場面。

 主人公がピストル自殺をして動きを止めると、「またもや栄光だ」という注釈がつくのです。しかし、まるでその注釈に刺激されたかのようにして、主人公は生き返ります。

 後半、「彫像を壊すのは危険なことである。なぜなら、壊した者が彫像になりかねないからだ」という注釈が入った直後にも、「また栄光」「また栄光」と繰り返されます。

 ピストル自殺によって、動いていた人体が動かない物体(いわば彫像)と化した時、あるいは、彫像を壊した者が、そのせいで自らも彫像となる時、この映画の作者は、そうした状態を「また栄光だ」と言って蔑み、批判しているかのようなのです。

 つまりこの映画には、「彫像(動かないもの)=栄光=蔑むべきもの」という等式があるのではないでしょうか。

 映画のクライマックスでは、「死ぬほど退屈な不滅性」という注釈が現れます。そしてまるで、映画制作という嫌な作業からやっと解放されるのでせいせいしているかのような口調で、「おわり!」と叫ばれて、この映画は終わるのです。

 崩れ落ちる塔が、映画の最後のイメージとなります。これは、彫像(動かないもの)、つまり「不滅性」が倒される、という解釈に繋がるのではないでしょうか。

 そのように考えると、映画の前半に現れた注釈「自分は映画の罠にはまった」にある「映画の罠」とは、映画という記録が持ち得る「不滅性」のことではないかという気がしてきます。

 思えば途中、「映画への記録は止むことなく続く」という注釈もありました。

 コクトーは、映画という表現に惹かれて映画への記録を続けるけれども、そもそも映画という記録は、コクトーが蔑む「不滅性」を持ちかねない(実際、制作から90年以上たっても上映されるほどの「不滅性」が本作にはあるわけです)。

 「映画」に対してコクトーは、そうしたアンビバレントな、つまり相反する感情を同時に持っていたのではないかと感じられました。

 いずれにしましても、広い解釈に開かれた作品、つまり自分にとって意味があるのかないのかすらも分からない作品を、自分なりになんとか読み解いていこうとする鑑賞は、とても楽しいものでした。

 ありがとうございました。